歴史・文化・伝説

大日如来座像2体

大日如来座像2体

【昭和29年4月1日県指定】- 大字竹成 -  金剛界大日如来像は文明11年(1479)。胎蔵界大日如来像は文明 13年(1481)と胎内墨書があって2体とも室町後期の作である。そ の後、江戸期の正保4年(1647)に京都の仏師安村伊右衛門の手に より修復されている。戦後の昭和28年に奈良の仏師太田古朴に修補を 依頼、このとき胎内墨書が発見された。大日如来は普通頭に宝冠を戴き、紺髪を肩にたれ、ヨウラク、腕釧、 天衣を身につけた菩薩の姿をとっている。

この大日如来像は宝冠もつけず一切の装飾をはぶき、白木造りの像容の身に納衣と裳をっけただけの姿である。
尊像全体から簡素の中にも清楚な美しが感ぜられる。 背後の光背は円光で、紺の彩色が施されている。右が胎蔵界、法界定印(結跏跌坐の膝の上に左掌を仰むけておき、 その上に右掌をかさね親指の先を合せささえる)を結ぶ、左は金剛界 で智挙印(胸の前にあげてのばした左掌の人差指を右の掌をもって握 る)を結ぶ2体を安置する。この大日堂は大平山松樹院と称して、もとは願行寺の門前の小堂に 安置されていたのを幕末の頃、五百羅漢を建立した照空上人(神瑞和 尚)により、この地へ移された。明治の頃は2体の大日如来を安置す るだけの小堂であり大正6年、鈴木又市が田口新田の真願寺の旧堂を 移築して現在に至っている。この竹成は朝明川の右岸に位置して、往古は杉谷、榊あたりと一帯の仏教文化圏に属していたものと思われる。四日市市南富田善教寺に ある重文の「阿弥陀如来胎内文書」の藤原実重が記した作善日誌によ ると「嘉禎4年(1238)米2斗2升竹成御料にたてはしむ」とあって鎌倉中期頃に竹成に仏堂が存在し、その供物に米が寄進されている。 中世鎌倉、室町時代には、この大日如来を中心として栄えたときが あったようである。