歴史・文化・伝説

田光の高札場

田光の高札場

- 大字田光 -  多比鹿神社の大鳥居前の広場の西側に高札揚がある。屋根は瓦葺きで柱は桧を使い、まわりを頑丈な柵で囲い、基礎はていねいた切石で 亀甲積みにした立派なものである。それが、長い年月、風雨にさらされ、柱や柵は大分傷んでいる。ここは、南の亀山からきた巡見街道と桑名からのぼってきた八風街 道が交叉する重要な辻であった。昔は高札場のある前の辻を「札の辻」と呼んでいた。

高札揚は高札(制札)をたてた場所のことをいい、幕府は法令を木札に書いて街道の辻など人々の目につきやすいところに建て、法度の 周知徹底をはかった。普通、高札は横長の板の上部をゆるやかな三角にして裏に棧をつけたもので、形は大小さまざまであった。高札揚の 規摸は、石を積み1段高くして、そこに桧の3寸角の柱を埋め、高さ6尺、幅5尺の大きさにして柱には横に貫を通して、上に雨おいの屋 根をつけ、まわりに柵を設けることに定められていた。村々の高札揚の管理は庄屋が当たり、その設置の費用は藩から出た。これを、故意 に傷つけたり、壊すと罰せられた。田光村が桑名領のとき、高札を新規に書き替えするために、村の大工に札を作らせ、それを桑名の代官 へ持参して祐筆に墨で書いてもらい、その高札を渋紙で包み、さらに菰に巻いて持ちかえり高札揚にかけている。幕府の嘉永4年(1851)に田光村が天領下に置かれていたころ近 江の信楽代官所へ願いでて建てた高札は八風大明神境内に汚穢不浄のしなものはもちろん陶器の類を埋め候もの見つけ次第留め置き訴え出でべきものなり と書いた札で、これは「お菊の伝説」にあるように、八風峠を陶器などを持って通行すると、必ず山が荒れ、大洪水になると信じられていたので、それを禁じた札であった。明治のご維新になって廃止となった。