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八風の草競馬 ※現在は行われておりません

八風の草競馬

- 大字田光 -  春、桜の花の満開のころ、田光の旧八風神明社の大鳥居前で草競馬が催されることが恒例の行事になっている。昔は、ま直ぐな竪馬場でしたが近年この草競馬が人気を呼び、馬場も拡張されて円型馬場とな り、祭りの日は多くの観客を集め大賑わいとなる。この草競馬の起りは、昔、ここより山手の上の茶屋に村があり、その村長の中西家に祖先伝来の家宝の皿があった。その皿の守役は、お 菊というら若い下女がつとめていた。

その長者の家の下男に熊蔵という若者がいて、お菊に想いを寄せて言いよったが成就せず、そのことを熊蔵は恨みを持ち、密かに家宝の皿を隠し、お菊を罠にはめた。そのためお菊は責めを問われ、身の潔白を示すため峠の神明社に祈り身を池に投じた。
このとき一天俄にかき曇り雷鳴とどろき、大雨が降り大洪水となって村長の家も村も流されてしまった。このことのあっ た後、切畑、田光村の若者達は、薄幸のお菊を隣れみ峠の神明社に祀り、その霊を慰めるための神事として草競馬を行うようになったといわれている。また八風峠を陶器を持って通行すると、暴風雨になると信じられこ のため峠に番小屋を設けて通行する商人、旅人の荷改めを行っていた。草競馬の起源の年代は明らかではないが、昔は農家に農耕馬が飼育されていて、その馬を厩から引き出し、祭りの日に駆け競べをさせた。 競馬は馬の鍛練の場でもあり、また娯楽に乏しい農村のたのしみの一つでもあった。明治43年ごろ神社の合祀令により峠に祀る八風神明社が村の中の多比鹿神社に合祀され、宮守の制度も改めれると一時、草競馬も中断し たときがあった。その後、昭和天皇の即位を記念して復活したが、先の太平洋戦争中は農耕馬が軍馬こ徴発されて、また中断された。戦後、平和が甦り昭和45年頃に、八風青年会が復興を提唱して一時再開したが、現在は行われていない。