歴史・文化・伝説

西行庵跡

西行庵跡

- 大字田口 -  福王山バス停から約500m、巡見街道のかたわらに西行庵跡の碑が ある。それより左へ150m登った、赤松林の丘の上に西行庵跡がある。 眼下に田口の新溜をへて東に伊勢平野が広がり見晴らしのよい地であ り、ここに平安末期、鎌倉初期の歌僧であった西行法師が庵を結び住 んで居られた跡であると言われている。西行法師は各地を行脚して歌を詠み漂泊の旅を生涯続けたが、晩年 は伊勢国を本居にしていたようである。

伊勢市の神宮の近くにも西行谷とよぶ旧跡がある。ここ田口の西行庵跡では、次の歌を詠まれたと 伝わっている。山家集(佐々木信綱編)春の歌の部に伊勢国にしふく山と申す所に待りけるに庵の梅の香はしく 匂ひけるを ~
として柴の庵 よりより 梅の匂ひきて やさしき方もあるすまい哉 山家集のにしふく山は、今の福王山のことをいうのであろう。 のちに村人たちは西行法師の徳を慕い、このところに歌碑を建てた。 大正の始頃史跡の保存の記念碑を建て、この場所に6坪位の建物を設 け、句会歌会が催された。西行は俗名佐藤義清(又は憲清)俵藤太秀郷9代の嫡流で代々武勇の誉れある家に元永1年(1118)に生れた。鳥羽上皇の代に北面 の武士として仕え、左兵衛尉に任ぜられたが、23才のとき突然出家遁世した。その出家の動機は時代風潮の無常観の厭世によるか、時世に 対する憂慮か、また伝説の様に近親者の急逝によるためであるか、確かなことは判り難いが、出家して高野、吉野に隠くれ、また諸国を遍 歴した。西行は西は九州、中国、四国から北は奥州こ至るまで足跡がある。文治2年(1186)の秋、69才の西行は伊勢を発して、東海、奥羽 の大行脚に上った。これより先、治承4年平重衡をたずねた。晩年京都に帰り洛東双林寺のあたりに庵を結び、後に河内に移り建久1年(1190)に弘川寺で73才で世を去っている。