歴史・文化・伝説

尾高観音

尾高観音

- 大字杉谷 -  釈迦岳直下の山麓、檜の古木が美しい林をっくっている静かな森の奥に六角堂の屋根が見えている。尾高観音堂の本尊は御丈5尺8寸はど等身大木彫の千手観音立像である。古くから伊勢観音三十三番の札所として庶民に親しまれてきた。この尾高観音は、旧引接寺といい二十五番の札所であり、杉谷の村中にある慈眼寺は旧観音寺といい二十六番の札所であった。いずれも中世は天台宗、若しくは熊野信仰の混交で杉谷寺と総称されて大いに栄えたときがあった。近年発掘調査を行い、明らかになった「杉谷中世墓」の五輪塔と蔵骨器の出土品は、この時代の杉谷仏教文化の繁栄ぶりを証する遺跡である。

これらの中世の寺院は永称11年(1568)信長の伊勢進攻により滅亡した。江戸期杉谷村は桑名藩領下に組み入れられ、 この観音堂は引接寺と称し桑名藩主の菩提寺、浄土宗照源寺の末寺に置かれた。そのためか、本尊千手観音を安置する厨子は桑名城主の寄 進といわれる。明治5年になって住職無住、そして無檀下の寺院は廃寺の令が出て一時、本寺の照源寺預かりとなった。この廃寺の令を杉谷の村民は哀 しみ、一村共有の山林2町4反歩を寺地として寄進、また檀徒も新しく37名を募り再興の願いを県に上申した。明治20年になり手治山田岩 淵町の空寺、慈眼寺の株を本寺照源寺の斡旋により譲り受け、寺号を慈眼寺として再興が許された。その後は慈眼寺の奥の院としてこの観 音堂は守られてきた。現本堂は六角堂で、基壇は六角型に花崗岩の切石積みである。堂は文化12年(1815)杉谷の宮大工増田兵蔵が建立し、嘉永4年(1851) に修理を行い、更に昭和10年同57年に屋根の葺替を行っている。屋根の頂部に六角の露盤に請花付の宝珠をのせている。本堂前に天和2年(1682)建立の角石燈籠がある。