歴史・文化・伝説

千種城跡

千種城跡

鈴鹿山脈の支脈のつきる小丘の自然の要 害の地をそのまゝ利用し、中世から近世に至る山城としての形状を ハッキリ遺している。千種城は南北朝時の公家であった千種忠顕の子、 顕経が鵜川原の禅林寺城から移り、この城を築いたといわれている。 北勢48家の豪族をその支配下において勢力があったが、弘治元年(15 55)近江の佐々木義賢に攻められ城主千種忠治は和議を結んだ。

永禄11年信長が滝川一益をして北伊勢を攻めたとき、北勢の諸家と共にその軍門に降った。天正12年(1584)秀吉と信雄の問が不仲になり秀吉 は蒲生氏郷に攻めさせ、このとき千種城は落城した。千種家二代目城 主顕経が築いた正平年間(1370)から、天正12年(1584)落城まで 約210余年続いた。現在は城跡の上に記念碑があり(昭和2年建碑の もの)現在でも敷地の中央部に空堀の遺構が見られ、西北の隅に兵糧 庫があったと言われ、土中から焼米が発見される。また、今の千種神 社のあたり金ヶ崎に出城があったと言われている。また、鵜川原の禅 林寺は千種家の菩提寺である。