歴史・文化・伝説

  • 五百羅漢

    【昭和42年2月10日県指定】- 大字竹成 -  竹成五百羅漢は県道四日市~田光線の交叉する竹成集落の中心にあ る。嘉永5年2月(1852)竹成出身の照空上人(神瑞和尚)が建立を発願されて、桑名の石工、石長こと藤原長兵衛一門の手により慶応2 年に完成したものである。明治9年の伊勢暴動により、大日堂はその 災に遇って焼失し、その後廃仏棄釈により、大日堂と共に衰微し心な きもののために石像も首を落され、三重の石塔も人手に渡る様な荒廃であった。

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    五百羅漢

  • 福王神社

    - 大字田口 -  国道306号線田口集落より西へ約2km、福王山の山麓、杉の巨木が亭々と空にそびえる森厳の中に神社はある。祭神は徳福の神毘沙門天 を祀っている。社伝によれば、敏達天皇6年百済より経文、僧、仏工を献上の折、来朝した仏師安阿弥が勅を受けて毘沙門天を刻んだとい う。後に聖徳太子の命により福王山にその毘沙門天を安置し、国の鎮護と伊勢神宮の守りとしたと伝える。毘沙門天は一名多聞天とも言う。

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    福王神社

  • 三嶽寺

    僧兵たちの集う山岳宗教(最澄が広めた天台宗)の拠点だった三嶽寺。今では折鶴伝説の恋結びの社寺として復活しました。毎年早春には、折鶴に願いをたくす「折鶴祈願奉納」、10月には火炎みこしが温泉街を練り歩く「僧兵まつり」が行われます。

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    三岳寺

  • 千草の常夜燈

    - 大字千草 - この大石燈籠は、旧千草街道と巡見街道の交わる千草の集落の中心部にあり、明治25年2月に建立された。この先、同22年に千草と音羽、潤田の3ヶ村が合併して新しく千種村が生まれた。その合併を祝い記 念して計画されたもので工事に3年を費やして完成された。この石燈籠は千草の石工内田友五郎が設計し、友五郎のほか10人の石工の手により刻まれた。

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    千草の常夜燈

  • 田光の高札場

    - 大字田光 -  多比鹿神社の大鳥居前の広場の西側に高札揚がある。屋根は瓦葺きで柱は桧を使い、まわりを頑丈な柵で囲い、基礎はていねいた切石で 亀甲積みにした立派なものである。それが、長い年月、風雨にさらされ、柱や柵は大分傷んでいる。ここは、南の亀山からきた巡見街道と桑名からのぼってきた八風街 道が交叉する重要な辻であった。昔は高札場のある前の辻を「札の辻」と呼んでいた。

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    田光の高札場

  • 八風の草競馬 ※現在は行われておりません

    - 大字田光 -  春、桜の花の満開のころ、田光の旧八風神明社の大鳥居前で草競馬が催されることが恒例の行事になっている。昔は、ま直ぐな竪馬場でしたが近年この草競馬が人気を呼び、馬場も拡張されて円型馬場とな り、祭りの日は多くの観客を集め大賑わいとなる。この草競馬の起りは、昔、ここより山手の上の茶屋に村があり、その村長の中西家に祖先伝来の家宝の皿があった。その皿の守役は、お 菊というら若い下女がつとめていた。

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    八風の草競馬

  • 玉葛水

    - 大字下村 -  玉葛水は玉かずら湯または道西坊ともよばれており、この「湯」とは池や井戸から湧き出る清水のことである。 この玉葛水には、日本武尊にまつわる伝説があって、命が東国の蝦夷を平定して帰る途中伊吹で賊を征伐した際に病気にかかり、伊勢国へ入られて病が重くなり、足が三重に曲り、御館の足洗石で御足をすすがれて更に道を西へのぼり、鵜川原のこの玉葛水で御目を洗われて、さらに南の鈴鹿に至り、遂に力つき野褒野で亡くなった。

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    玉葛水

  • 六谷遺跡

    - 大字小島 -  六谷遺跡は、朝明川の支流である田光川の左岸に形成された標高54m~55m前後で小島集落の南に広がる河岸段丘上にある。この遺跡は地元では、六谷山清月寺旧跡として知られ、「お鐘堤」「仏師谷」と いった地名が残っている。昭和58年度県営ほ場整備事業(八風地区)に伴う発掘調査で、遺跡は約3万㎡という広範囲であることが判明した。

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    六谷遺跡

  • 大久保遺跡

    - 大字潤田 -  大久保遺跡は、三滝川左岸で、同川の扇状地扇端近く、標高約76m にあり潤田集落の西方にある。この遺跡は、昔から地元の人々には知られていたが、いわゆる周知の遺跡ではなく、昭和57年都市計画街路、菰野一潤田線(現在国道306)新設事業地内出土の土器の照会があり遺跡の存在が公に明らかとなった。 発掘調査は、昭和57年12月4日~昭和58年3月末日まで実施された。

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    大久保遺跡

  • 九品寺の石造六地蔵

    - 大字田光 -  この石地蔵は九品寺の本堂の南側、壇の上に祀られている。花崗岩でつくられ、六角の面に仏像が刻まれている。石の表面は風化して尊 容もさだかでない。笠と台石に当る部分は後補のものである。形状は石燈籠の火袋に似ているが、石幢の部類に属するものである。

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    九品寺の石造六地蔵

  • 飛塚古墳

    - 大字大強原 -  飛塚古墳は、大字大強原字柳坪のミルクロードぎわにある。付近一帯は日研口41年は場整備事業によって耕地整哩が行なわれたがこの飛塚 古墳は現状のまま保存されている。古墳の規模は菰野町に現存する独立墳としては最大のもので、高さ3m、直径30mあり、もとは今より大きいものであったと思われるが、 長い年月に墳丘はくぼみ、上部は平坦になっている。

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    飛塚古墳

  • 禅林寺

    - 大字下村 -  禅林寺は下村の桑名道添いにある。臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院で山門を入ると、左手に金比羅、地蔵、薬師の講堂が建ち正面に方 丈がある。この方丈は明治6年菰野城の廃城の際建物の一部を移築したもので、表玄関の唐破風造りの様式、方丈内部の欄間等に当時の藩 邸の規模がうかがえる。同寺の寺域は広大で昭和10年頃は古木が繁り深い森に仏法僧(三宝烏)がやどり霊鳥の鳴声を聞くことがあった。

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    禅林寺

  • 江野縄文遺跡

    - 大字千草 -  江野遺跡は、菰野富士のすそ野、鳥井戸川と三滝川にはさまれた扇状地にある。江野は昔、菰野方面より湯の山への遊山道が通じ、春は つつじ、秋は荻の花、すすきの穂が一面になびき、絵の様な美しさで絵野とも呼ばれていた。古くは広い野原において、草競馬や太鼓踊りが催され、ここにまた古社、江田神社があった。戦前は旧陸軍演習場、戦後開拓地となり、昭和47年鈴鹿スカイラインが開通し、保養地として開発されている。

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    江野縄文遺跡

  • 田光城跡

    - 大字田光 -  田光城は田光集落の北西、鈴鹿山脈からのびた標高120mの丘陵上にあり、中世の砦跡である。南側を田光川が流れ、切り立った絶壁と なり、西側は空堀で支脈をたち切り、北側も急な斜面となっていて天然の要害の地である。東は多比鹿神社の神域と地続きになり、集落か らの木戸口となっている。

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    田光城跡

  • 西行庵跡

    - 大字田口 -  福王山バス停から約500m、巡見街道のかたわらに西行庵跡の碑が ある。それより左へ150m登った、赤松林の丘の上に西行庵跡がある。 眼下に田口の新溜をへて東に伊勢平野が広がり見晴らしのよい地であ り、ここに平安末期、鎌倉初期の歌僧であった西行法師が庵を結び住 んで居られた跡であると言われている。西行法師は各地を行脚して歌を詠み漂泊の旅を生涯続けたが、晩年 は伊勢国を本居にしていたようである。

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    西行庵跡

  • 尾高観音

    - 大字杉谷 -  釈迦岳直下の山麓、檜の古木が美しい林をっくっている静かな森の奥に六角堂の屋根が見えている。尾高観音堂の本尊は御丈5尺8寸はど等身大木彫の千手観音立像である。古くから伊勢観音三十三番の札所として庶民に親しまれてきた。この尾高観音は、旧引接寺といい二十五番の札所であり、杉谷の村中にある慈眼寺は旧観音寺といい二十六番の札所であった。いずれも中世は天台宗、若しくは熊野信仰の混交で杉谷寺と総称されて大いに栄えたときがあった。近年発掘調査を行い、明らかになった「杉谷中世墓」の五輪塔と蔵骨器の出土品は、この時代の杉谷仏教文化の繁栄ぶりを証する遺跡である。

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    尾高観音

  • 杉谷 七ツ塚古墳群

    - 大字杉谷 -  朝明川の奥郷橋を渡り、国道306号線を三岡に入り、尾高観音への桜並木を西へのぼると、道のカーブの左側に三岡集落の墓地がある。 この墓地の地内に古墳が5ケある。その内の一つは、直径25m、墳丘もはっきりして、石室の上に大きい石をもって石蓋とした形状がよく 判る。墓地の南側の3ケは墳丘が崩れ形状がややはっきりしないが、一連の古墳である。この三岡墓地は字高塚という地名になっている。

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    杉谷 七ツ塚古墳群

  • 三岳寺廃寺跡 国見岳山麓

    - 国見岳山麓 -  北谷の山小屋から北へ500m行き谷川を渡った南向きの谷のより 合ったところに廃寺跡がある。一番西に僧坊らしき基壇右横が少し残 り、つづいて東西に3段位になってやや平坦である。東の端は鐘楼へ 登る石段とおもえる、手を加えられた石が崩れてのこっている。この尾先きに鐘楼があったと云われている。寺跡の中央部に手洗石が壱個ある。

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    三岳寺廃寺跡 国見岳山麓

  • 見性寺 土方家菩提寺

    - 大字菰野 -  臨済宗、妙心寺派に属し、菰野藩主土方家の菩提寺である。寛永21年(1644)菰野藩主2世雄高が尾張の三霊和尚を招き、土方家菩提寺として創建した。寛文9年(1669)火災により庫裡が焼失し、享保11年(1726)藩主土方堆房が本堂、庫裡、山門を再建立する。

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    見性寺 土方家菩提寺

  • 菰野城跡

    - 大字菰野 -  菰野城は菰野藩壱万弐千石の大名土方氏の代々の居城であった。現在は菰野小学校の敷地になって西側と北側に城濠と築地が遣り、藩邸 の庭園の一部が西南の隅に僅かながら名残りをとどめ、そこに菰野城跡の碑がある。西南を流れる振子川に面して、角櫓下の石積の遺構が 見られる。藩邸の一部は、鵜川原の禅林寺へ、角櫓は池底の農家の土蔵に、馬屋の一部が四日市市赤水の農家へ、門は朝上小島の金蔵寺へ と移され、現在も往時を偲ぶことが出来る。

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    菰野城跡

  • 菰野藩主土方家墓地

    【昭和49年11月26日町指定】- 大字菰野 -  菰野藩主土方家墓地は、近鉄菰野駅から南へ200メートルの見性寺境内にある。藩祖雄氏は、菰野就封当時、主に京都の館に住み、はじ め北山の等持院内の功運院を菩提所としていた。雄氏および、その父雄久は功運院に葬られている。雄氏が慶長5年(1600)菰野に入部、 城を構え2世雄高の代に見性寺を創建し、歴代藩主の菩提寺と定めた。

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    菰野藩主土方家墓地

  • 杉谷遺跡

    【昭和45年2月25日県指定】- 大字杉谷 -  杉谷遺跡は尾高高原の東端、標高100mの丘陵にある。現在は小松林の中にヒナ壇式に墓石が並んでいる。昭和38年と40年の 2回にわたる発掘調査によって、中世の寺院の墓地として大規模なものであることが判った。

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    杉谷遺跡

  • 千種城跡

    鈴鹿山脈の支脈のつきる小丘の自然の要 害の地をそのまゝ利用し、中世から近世に至る山城としての形状を ハッキリ遺している。千種城は南北朝時の公家であった千種忠顕の子、 顕経が鵜川原の禅林寺城から移り、この城を築いたといわれている。 北勢48家の豪族をその支配下において勢力があったが、弘治元年(15 55)近江の佐々木義賢に攻められ城主千種忠治は和議を結んだ。

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    千種城跡