響き合う人と自然が美しい街 菰野
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お土産・特産品

菰野町のあらまし ニホンカモシカ キリシマミドリシジミ
鎌ケ岳ブナ原始林 大日如来座像2体 千種城跡
五百羅漢 杉谷遺跡 杉谷嘉例踊り
吉沢嘉例踊り 円空作両面仏 旧千草村庄屋辻家文書
菰野藩主土方家墓地 賀保寺の鰐口 菰野城跡
見性寺 土方家菩提寺 三岳寺廃寺跡 国見岳山麓 杉谷 七ツ塚古墳群
尾高観音 西行庵跡 田光城跡
福王神社 江野縄文遺跡 禅林寺
飛塚古墳 九品寺の石造六地蔵 奥郷の寒椿「獅子頭」
田光東北山のシデコブシ自生地 大久保遺跡 六谷遺跡
智福寺(仏涅槃図)月僊作 正眼寺薬師三尊像 禅林寺大日如来像
玉葛水 八風の草競馬 田光の高札場
千草の常夜燈 民話〜萱場と萱刈り 民話〜司馬江漢の西遊日記
民話〜嶽のぼり 民話〜小島の十兵衛どんど 民話〜前野の狐
民話〜佐右衛門島のはなし 民話〜あやめ塚 民話〜嘉十大工とピタゴラス
 

菰野あらまし

菰野町は三重県の北部にあり、西は鈴鹿山脈を分水嶺として滋賀県に接し、北は員弁郡大安町、東と南は四日市市に隣接しています。 ・・・続きはこちらから>>
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ニホンカモシカ

【昭和30年2月15日国指定】
- 菰野町御在所岳を中心とする鈴鹿山系に生息 - ニホンカモシカは、日本だけにしか生息しない動物で学術的に貴重な動物である。御在所岳を中心として、鈴鹿山系一帯に生息しており、野生のものは一家族ごとに生活し、2〜3km内の範囲内でおもに、カシ類,常緑 広葉樹を食べて生きている。この地方ではニクとかクラシシというよび名がある。かつて御在所岳山上にあった日本カモシカセンターで日本で初めて人工飼育と繁殖等を行ない、ニホンカモシカの生態,増殖,保護等の学術的 研究がなされていた。現在、鈴鹿山脈には麓から1200mの山上まで約400頭が生息していると推測される。
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キリシマミドリシジミ

【昭和28年5月7日県指定】
- 御在所岳(菰野町地域指定)-
シジミチョウ科の一種であって、その輝くばかりに美しい羽根の華麗さは他に類がなく、日本の珍蝶として広く知られている。 生息地の分布は、九州,四国,本州南部の太平洋岸で御在所岳は多産地の一つで、学術的にも貴重とされ県の天然記念物の指定を受けている。 1915年山内甚太郎氏によって、御在所岳中腹で発見されていた が1921年鹿児島県霧島山で同種のものが採集され、この採集地の 地名が命名の対称になりキリシマミドリシジミと名付られた。 蝶としては、小型のものであって、雄の羽根の表面は金緑色、裏面 は銀白色に輝いている。7月から8月にかけて成虫となりアカガシ林 の上を飛ぶ。この蝶の保護のため、自然林常緑広葉林の環境保全が大 切である。 また、御在所岳一帯には約3,000種の昆虫が生息するといわれて いて自然の動植物の宝庫である。
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鎌ヶ岳


【昭和38年1月11日県指定】 - 大字菰野 -
 北アルプスの槍ヶ岳を思わせる美しい鎌ヶ岳の山頂近くの北東斜面 に、今日では少なくなった日本山地林
を代表する立派なブナ林がある。その上このブナ林は表日本に珍しい御在所スキー場にみられるように日本海気候の吹き出し山地となり、多積雪地帯となる。このような自 然下にあるため鎌ヶ岳のブナ林は表日本のブナ林でありながら、裏日本多雪地植物のヒメモチ・ハイイヌガヤが加わっているなど全国的に 珍しく、また植物の生き様を示す貴重なブナ林である。 ブナ林は樹高13〜18mのブナを主木にミズナラやカエデ類・ホオノキなどを混じ、林内に美しい花をつけるホンシャクナゲ・シロヤシオ ・ベニドウダンが多く、下生えにはびっしりとスズタケという背丈をこすササタケが茂り残雪部には雪国の木々も混じ、大木幹には羽根ひ ろげ状のヒムロゴケなどブナ林特有のコケも生えた貴重で珍しいブナ林である。
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大日如来像


【昭和29年4月1日県指定】- 大字竹成 -  金剛界大日如来像は文明11年(1479)。胎蔵界大日如来像は文明 13年(1481)と胎内墨書があって2体とも室町後期の作である。そ の後、江戸期の正保4年(1647)に京都の仏師安村伊右衛門の手に より修復されている。戦後の昭和28年に奈良の仏師太田古朴に修補を 依頼、このとき胎内墨書が発見された。大日如来は普通頭に宝冠を戴き、紺髪を肩にたれ、ヨウラク、腕釧、 天衣を身につけた菩薩の姿をとっている。この大日如来像は宝冠もつけず一切の装飾をはぶき、白木造りの像容の身に納衣と裳をっけただ けの姿である。
尊像全体から簡素の中にも清楚な美しが感ぜられる。 背後の光背は円光で、紺の彩色が施されている。  右が胎蔵界、法界定印(結跏跌坐の膝の上に左掌を仰むけておき、 その上に右掌をかさね親指の先を合せささえる)を結ぶ、左は金剛界 で智挙印(胸の前にあげてのばした左掌の人差指を右の掌をもって握 る)を結ぶ2体を安置する。  この大日堂は大平山松樹院と称して、もとは願行寺の門前の小堂に 安置されていたのを幕末の頃、五百羅漢を建立した照空上人(神瑞和 尚)により、この地へ移された。明治の頃は2体の大日如来を安置す るだけの小堂であり大正6年、鈴木又市が田口新田の真願寺の旧堂を 移築して現在に至っている。  この竹成は朝明川の右岸に位置して、往古は杉谷、榊あたりと一帯 の仏教文化圏に属していたものと思われる。四日市市南富田善教寺に ある重文の「阿弥陀如来胎内文書」の藤原実重が記した作善日誌によ ると「嘉禎4年(1238)米2斗2升竹成御料にたてはしむ」とあっ て鎌倉中期頃に竹成に仏堂が存在し、その供物に米が寄進されている。 中世鎌倉、室町時代には、この大日如来を中心として栄えたときが あったようである。
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千種城址


【昭和38年1月11日県指定】- 大字千草 -
 信長が京へのぼったとき通ったという伊勢と近江を結ぶ千草越えの 要路に面して千種城はある。
鈴鹿山脈の支脈のつきる小丘の自然の要 害の地をそのまゝ利用し、中世から近世に至る山城としての形状を ハッキリ遺している。千種城は南北朝時の公家であった千種忠顕の子、 顕経が鵜川原の禅林寺城から移り、この城を築いたといわれている。 北勢48家の豪族をその支配下において勢力があったが、弘治元年(15 55)近江の佐々木義賢に攻められ城主千種忠治は和議を結んだ。永禄 11年信長が滝川一益をして北伊勢を攻めたとき、北勢の諸家と共にそ の軍門に降った。天正12年(1584)秀吉と信雄の問が不仲になり秀吉 は蒲生氏郷に攻めさせ、このとき千種城は落城した。千種家二代目城 主顕経が築いた正平年間(1370)から、天正12年(1584)落城まで 約210余年続いた。現在は城跡の上に記念碑があり(昭和2年建碑の もの)現在でも敷地の中央部に空堀の遺構が見られ、西北の隅に兵糧 庫があったと言われ、土中から焼米が発見される。また、今の千種神 社のあたり金ヶ崎に出城があったと言われている。また、鵜川原の禅 林寺は千種家の菩提寺である。
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竹成五百羅漢


【昭和42年2月10日県指定】- 大字竹成 -
 竹成五百羅漢は県道四日市〜田光線の交叉する竹成集落の中心にあ る。嘉永5年2月(1852)竹成出身の照空上人(神瑞和尚)が建立を 発願されて、桑名の石工、石長こと藤原長兵衛一門の手により慶応2 年に完成したものである。明治9年の伊勢暴動により、大日堂はその 災に遇って焼失し、その後廃仏棄釈により、大日堂と共に衰微し心な きもののために石像も首を落され、三重の石塔も人手に渡る様な荒廃 であった。
大正8年境内に竹成米の発見者松岡直右エ門の顕彰碑が建 立されるや、境内も整備され今日に至っている。 小高く盛った土山の上に無数の石像が並び、或いは坐り、立ち、空 を仰ぎ、各像各様の姿は誠に偉観である。 東入口には、大地蔵菩薩と二童子、三蔵法師、弘法大師、南に願主 の照空上人像、地獄の炎魔大王と十王、山上には大日如来と四方仏、 その前に釈迦如来、普賢菩薩等、北面した所に七福神、役の行者、苦 行の釈迦、中腹に天照大神、猿田彦、羅漢像と真に神も仏も一仏一体 である。春は桜の花の下、夏はみどりのもみじの葉蔭に在る諸像は何 かを語りかけてくれそうな親しみ深い尊容である。 五百羅漢として有名なものは奈良の壷坂寺や九州の宇佐にある。 照空上人(神端和尚)は天明8年5月竹成で生れ、文化9年出家、 鈴鹿の野登山に登り修行する。天保8年頃神森、賀宝寺の住職となり 同寺を復興、天保12年郷里の竹成へ帰村、安政2年4月11日68歳で入滅する。
 >>五百羅漢の場所と藤の花
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杉谷遺跡


【昭和45年2月25日県指定】- 大字杉谷 -
 杉谷遺跡は尾高高原の東端、標高100mの丘陵にある。現在は小松林の中にヒナ壇式に墓石が並んでいる。昭和38年と40年の 2回にわたる発掘調査によって、中世の寺院の墓地として大規模なものであることが判った。
特に発掘品として骨壷類が多数出土し、ダビした火葬穴も完全なものが10数カ所発見され歴史的にも貴重な遺跡で あると云われている。発掘された骨壷の内、古瀬戸系に属するもの33点、常滑系に属する もの17点あり、なかでも古瀬戸の瓶子は美しい唐草模様に、灰緑色の 灰釉が施され、美術的に価値のある逸品である。平安後期から鎌倉、室町、桃山期にかけては県内での陶器の製造は 行なわれず、瀬戸や常滑で焼かれたものが移入されたものである。こ れ等の発掘品は全部、尾高観音前の収蔵庫に保管されている。 火葬穴は径1m×0.7m,深さ0.7m前後の長方形のもので壁面は火 で赤くこげており、土坑内から鋲釘、竹炭等が出土した。火葬穴の上 に崩壊を防ぐため、覆屋の設備がある。この中世墓地の付近には、土 塁で囲まれた住居跡と思われるものがあり、また谷をへだてて約200 m余り北方に観音寺跡がある。ここには礎石が散在する。この杉谷に は中世観音寺、円導寺、引接寺等の寺院があったと伝えられている。
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杉谷嘉例踊り


【昭和46年11月25日町指定】- 大字桂谷 -
 この嘉例踊りは、太鼓踊り、雨乞踊ともいい古くから鈴鹿山麓の扇 状地、水田の水不足地帯に多く伝承されてきた郷土芸能である。 稲作を主とする農家では、春の「苗代水」、田植どきの「植付水」、 出穂開花どきの「花かけ水」などは、欠くことの出来ない養水であっ た。特に杉谷あたりの山間地では10日も日照りが続くと水不足が生じ、 鎮守の熊野神社に雨乞い祈願を行った。それでも降雨がないと、村の 若者達が寄り、太鼓をたたいて、この雨乞踊りを奉納した。幸い願い がかない慈雨を見ると、こんどは「雨乞御礼踊」を奉納するのであった。この踊りは大きな締め太鼓を胸につるして唄に合して踊る形で、太鼓を打ち鳴らせば悪魔を払い
神霊を呼ぶものとされ、ほら貝を吹け ば雲をよび雨水を求めるものといわれ、それに笛と鉦が入り、一つの 踊りの形が整えられてきた。杉谷では毎年8月1日に区の公民階前で公開披露される。踊手の役 割は露払い。高張提灯、太鼓、ほら貝、大団扇、鉦、サッサイ、笛方、 歌上げなど総勢35名余の陣容である。踊りの形は「場踊り」と「練り」がある。公開の日は、全員公会所 に集合して足揃えといい、衣裳道具を改め行列を組み、古式に則り、 先ず「役人前」区長宅を訪ねて庭で一踊りして、その後、西三岡、尾 高、東三岡、慈眼寺、熊野神社、翠巌寺と順々に巡る。これは村の要 所を隅から隅へと廻り悪霊を払うことと、それに氏神とお寺へ豊作を 祈願するためである。この嘉例踊りも先の太平洋戦争中は、踊手の若者が出征したので一 時中断、戟後、若者の帰還をよろこび長老の市川留松老が熟L、に復活 をよびかけ踊りの仕草、歌唱の指導に努めた。これに呼応して杉谷区 では保存会を設けて伝承の体制を固め、今日では旧に倍して盛んに なっている。
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吉沢嘉例踊り


【昭和48年7月24日町指定】- 大字吉沢 -
 吉沢嘉例踊りも、杉谷嘉例踊りと同じく、その起源、踊りの形態は 異ならず類似の郷土芸能である。江戸期菰野藩主は嘉例踊りを好み、 大いに奨励したため、領下16ケ村の村々では宮守りの連中が踊りを伝 承してきた。毎年夏祭りには踊り手が城内に繰込み藩主の面前で披露 するのが慣わしになっていた。菰野藩の記録では明和6年(1769) の6月、文政6年(1823)の7月に雨乞踊りを八幡宮へ奉納してい る。昔は雨乞踊り提灯踊といい嘉永5年(1852)ごろから「嘉例 踊」の呼称が一般化した。吉沢嘉例踊りは毎年鵜川原神社の秋祭り10 月12日ごろに神社で公開披露される。踊り手の役割りは露払い。高張 提灯、竿燈、太鼓、ほら貝、大団扇、鉦、笛方、歌上げなど総勢25名 ほどで杉谷とあまり変らない。
ただし太鼓方の装束が紺のハッピに股 引、腹掛、わらじ履きという地味な、農民の仕事着である。踊りの形 は「場踊り」・と「練り」であって、それと太鼓役が頭にかぶる陣笠は、 巴の紋が入り、これは藩主土方公から拝領のもので、誇りにしている。 嘉永5年(1852)の「嘉例踊歌」の本には、足揃え、"西の宮"、 "東の宮"、"御役人"、"地下蔵"といい、吉沢村の神社と庄屋、 それに郷蔵と村内の要所を巡り練り歩く。そして所々で場踊りを披露 している。そのとき唄う歌詞は
 東西南北しずまりたまへ
 これからたがいに拍子をそろへ
 千とせかわらぬ嘉例のおどり
 神と君とにたてまつる、たてまつる。
嘉例踊りの歌詞は、そのつど祭りや行事に合せて即興に作られたも ので昔は村々に田園詩人がいたのである。稲作地帯の村では踊りが雨乞神事と一体のものであることからどの 村でも伝承されていたが、明治末の神社の合祀にはじまり、そのごの 時代の急激な変化により多くの村では廃絶状態となり、杉谷と吉沢の みがかろうじて継承されてきた。
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【昭和48年7月24日町指定】- 大字菰野 明福寺所蔵 -
 木質は椹材(さわら,桧科)で一本彫御丈1.66m、一面阿弥陀如来、二面薬師如来の両面仏となっている。数ある円空作品の内でも大 きさから言っても珍しいもので円空の代表作の一つである。この両面仏はもと伊勢神宮の神宮寺であった伊勢市の常明寺の持仏 で明治初年の廃仏棄釈により常明寺も廃寺となりこの両面仏も廃棄されようとしていた。これを惜しんで、明福寺13世住職賢竜の弟、大正 が多気郡津田村の法受寺住職のとき貰い受け生家の明福寺へ持ち帰ったものである。延宝年間(1680)円空が伊勢志摩を巡ったときの作 品と言われている。
この両面仏を作像された円空上人は岐阜県の羽島市附近で生まれ七才の頃出家して密教を学んだ江戸中期の僧である。円空はその生涯 定まった寺をもたず、あまねく各地を巡って布教した。]地道へも渡り洞爺湖まで進み、アイヌ人の教化にも力をつくした。全国至所で荒 削りの仏像を多く刻み、元禄8年(1695)に亡くなっている。円空の彫刻は、日本の古典仏像とは異り全く独自な日本の生んだ民族的なもので、円空彫刻は戦後、その真価が評価されて、民家や寺院 の奥深く埋れていたものが発見されて、世に認められる様になった。その作像された仏像はことごとく庶民的で親愛感をうみ、彫刻の手法 は丸太の木材をたて割り、四ッ割にして意のむくまま、自由に大まかで、直截な力強いたくましさを感ずる。明福寺両面仏は、阿弥陀、薬師の両尊像で来世の幸福を願う阿弥陀 信仰と、病者を救う薬師如来の現世利益の願が両面仏にこめられている。尊容は二面とも美しい優しいおん目と口許に微笑を感じ声をかけ たくなる様な親しみがある。前に立って拝むものに深い感動を伝える。一木造りの両面彫刻は石仏の両面彫刻をならったものであると言われ、珍しい構想である。
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【昭和49年11月26日町指定】- 大字千草 -
 戦国時代の千草村は北勢48家の豪族の雄としての、千種氏の拠点であった。信長の伊勢平定後永禄11年、滝川一益の支配下となり、天 正11年一益は秀吉に追われ、織田信雄の所領となる。
一時、信雄の家臣生駒雅楽頭の支配となり、天正19年信雄が秀吉に忌避され、秀次の 所領となり、一柳古近将監直盛が桑名にあって北勢五郡を支配する。徳川幕府となってから、慶長6年桑名城の本多忠勝の所領となり、 元和3年桑名藩松平定勝11万石の領下となった。文政6年忠堯が、武蔵国忍へ移封されてより忍藩となった。天保13年天領となり、信楽代官所の支配下となり、また安政1年忍 領に復帰して明治2年忍県となった。封建制度下の村の所属の変遷は激しい。辻家は、もと千種氏に仕え、のち代々千草村の庄屋をつとめ た家である。同家に所蔵される文書は、文禄年代から慶応に至るまで、江戸時代全期にわたって前記の藩政の支配関係、入会、水利、農業、 社寺、交通、租税などを記録した村方文書である。この辻家文書によって、千草村はもちろん付近の音羽、潤田など隣郷諸村の関係を知ることができる。史料数3百余点は、近世農村郷土資料として貴重である。
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【昭和49年11月26日町指定】- 大字菰野 -
 菰野藩主土方家墓地は、近鉄菰野駅から南へ200メートルの見性寺境内にある。藩祖雄氏は、菰野就封当時、主に京都の館に住み、はじ め北山の等持院内の功運院を菩提所としていた。雄氏および、その父雄久は功運院に葬られている。雄氏が慶長5年(1600)菰野に入部、 城を構え2世雄高の代に見性寺を創建し、歴代藩主の菩提寺と定めた。墓地は見性寺山内の丘の中腹にあったが、雨水のために崩潰したの で、宝永2年(1705)4世豊義の代に西側の現在地へ移した。歴代藩主の墓碑は、2世雄高を中心として、石造りの鉾形、五輪形など大 小26基が整然と並んでいる。東側の墓地には、1世雄氏の夫人と4世豊義の夫人の墓があり、家臣団の墓地も続いている。1世雄氏の夫人玉雄院は、織田信雄の息女であり92才まで生き藩の草創期に内助の功があった。
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【昭和50年11月26日町指定】- 大字神森 -
 鰐口とは仏堂の軒下につるしてあり、参詣者が紐で編んだ綱で打ち鳴らす丸い金属性のもの。この鰐口は、直径38cm、厚さが6.5cm、青銅製室町中期の永享2年(1430年)に制作された。鰐口の銘文に「三重那智積御厨内賀保寺鰐口之事、永享2年11月8日願主敬白大工藤助信」とある。この銘文から当時森が智積郷の内に 属していたこと、智積郷は伊勢神宮の神領であり
智積を中心に桜、一色、森、平尾、赤水、海老原の諸村がその区域に含まれていたこと がうかがわれる。智積にあった奈良時代創建の古刹智積寺が永享の乱によって滅亡し、その翌年にこの鰐口がつくられていることなど、賀 保寺の歴史と森村の所属の移り変りを伝える貴重な資料である。賀保寺は平安後期掘河天皇の代嘉保年間に創建されたので嘉保寺と 名付られたという。一時寺が栄えた時があったが、永禄11年(1568)信長の兵火に遭い仏堂も焼失した。江戸時代に寛文年中森村の豪土南部氏によって再興され、のち竹成 の五百羅漢をつくった神瑞和尚もこの寺の住職となり復興に尽した。昔は寺の前庭に藤の古木があり花の盛りは多くの参詣者で賑わった。 明治維新後の廃仏思想により、廃寺となり、池庭の上にあった天堂も移されて、諸仏像は、いま公会所の中に安置されている。旧礼拝堂の天井には龍の彫刻がかかげられている。
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 - 大字菰野 -
 菰野城は菰野藩壱万弐千石の大名土方氏の代々の居城であった。現在は菰野小学校の敷地になって西側と北側に城濠と築地が遣り、藩邸 の庭園の一部が西南の隅に僅かながら名残りをとどめ、そこに菰野城跡の碑がある。西南を流れる振子川に面して、角櫓下の石積の遺構が 見られる。藩邸の一部は、鵜川原の禅林寺へ、角櫓は池底の農家の土蔵に、馬屋の一部が四日市市赤水の農家へ、門は朝上小島の金蔵寺へ と移され、現在も往時を偲ぶことが出来る。藩士が居住した区域は藩内と言う地名として遣り、南北、東の城戸の跡も道路によって木戸柵 のあった事が判る。城内の古絵図も旧藩士家に遺されていて、藩邸、藩士の屋敷割、町並等藩政時代の規模をうかがうことができる。
藩主の始阻、土方雄久は尾張に住み織田信長の子信雄に仕えていた。永禄11年に信長が伊勢を平定し、同12年に滝川一益に北勢五郡を与え、三重郡の代官所を菰野に置き、その家臣の南川治郎左衛門が代官 であった。天正11年織田信雄の所領となったとき、土方雄久に菰野七千石を封し、天正18年信雄が秀吉に追われるまで、推久の所領であり、 この一時期は見性寺に城を構えていた。雄久の子雄氏が慶長5年家康より菰野吉万弐千石を与えられ、入部当初は滝川代百所跡を修補して、 仮藩庁を設けた。藩士も宿野、福村、吉沢の諸村に散在し、藩主は京都に住んだ。寛永年間、2世、雄高の代に藩邸を建て、藩士の屋敷も 設け、東町を開き、城郭の構えを整えた。菰野城は初代土方雄氏より12代雄永に至るまで明治2年に藩政を閉 じた廃藩に至るまで約270年間、藩主の転封、移動もなく土方氏の居城であった。藩政時代、菰野藩の統治下にあったのは次の村々であっ た。三重郡の水汎小山山田,黒田,吉沢,上鵜川原,諏訪,池底,潤田,西,中,東菰野村,宿野,福村,神田,森,近江栗太郎(草津市附近)に羽栗,南笠,上笠、合計19ケ村である。
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- 大字菰野 -
 臨済宗、妙心寺派に属し、菰野藩主土方家の菩提寺である。寛永21年(1644)菰野藩主2世雄高が尾張の三霊和尚を招き、土方家菩提寺として創建した。寛文9年(1669)火災により庫裡が焼失し、享保11年(1726)藩主土方堆房が本堂、庫裡、山門を再建立する。
書院の玄関は菰野在住の名工高木藤造の作である。本堂は禅宗の方丈建築様式であり、山門は豪壮で大名の菩提寺たる格式を備えている。 開山の三霊和尚は臨済初期の高僧で、後に孝明天皇より紫衣と禅師号を賜わっている。2世越伝は黄檗の渡来高僧との往来交流があり木庵、 即非等の書跡がある。また藩主の愛用した鎧、甲、旗、屏風、塗盥、塗膳等調度品その他書籍、文献、書画等貴重な文化財が遺されている。 寺域は広く、南西の小高いところに藩主の墓地がある。見性寺には雄豊夫人寄進の梵鐘があり、寛文3年(1663)、京都の鋳物師近藤丹 波掾藤久の作になるもので、鐘銘は2世住職越伝の撰文、戦争中の供出にも危うく難をまぬがれ保存されている。また、境内にある西国八十八ケ所は、大正8年に設けられた。毎年春4月の弘法まつりは多くの参詣者で賑わう。
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- 国見岳山麓 -
 北谷の山小屋から北へ500m行き谷川を渡った南向きの谷のより 合ったところに廃寺跡がある。一番西に僧坊らしき基壇右横が少し残 り、つづいて東西に3段位になってやや平坦である。東の端は鐘楼へ 登る石段とおもえる、手を加えられた石が崩れてのこっている。この尾先きに鐘楼があったと云われている。寺跡の中央部に手洗石が壱個ある。
片方が欠けているが、これが唯一の寺の名残りをとどめるものである。廟所(墓地)は谷の南側にあってヒナ段伏に区画の跡が見え、 五輪の石塔が数基のこっている。この寺は、比叡山の伝教大師が大同2年(807)に開かれたと伝わっているが確かなことは判らない。天台が盛んな頃は、僧坊に僧兵が 集まって北伊勢の天台系の寺をその支配下においたと言われている。千種の音羽は三岳寺の寺領であって今も村の地名に鐘突田、油田、岳 道の名が残っている。また音羽の虚空蔵寺の本尊は秘仏であり、元三岳寺にあったものだと言われている。参道は菰野富士北側の、鳥居口 より入るのが往昔の参道であって、江野から丁仏があったが、今は失なわれ2、3、石仏が参道の道端にのこっている。永禄11年頃(1568) 信長の兵火により灰ジンとなり滅亡した。その後江戸時代に入って、国見岳より江野にかけての、千草村外と菰野村とに村境の山論が生じ、また三岳寺の寺号山号の帰属をめぐっての争いがあった。
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- 大字杉谷 -
 朝明川の奥郷橋を渡り、国道306号線を三岡に入り、尾高観音への桜並木を西へのぼると、道のカーブの左側に三岡集落の墓地がある。 この墓地の地内に古墳が5ケある。その内の一つは、直径25m、墳丘もはっきりして、石室の上に大きい石をもって石蓋とした形状がよく 判る。墓地の南側の3ケは墳丘が崩れ形状がややはっきりしないが、一連の古墳である。この三岡墓地は字高塚という地名になっている。
これより約1,000m上手の字黒石原の山林内に11ケの群集墳がある。 古墳は大体東西の一線上に並んであり、形状は直径10m〜30mに及ぶ大小のもので円墳である。大部分のものが頂部の石蓋の部分が割られ、 盗掘を受けている。また中には、古墳の前部の封土が掘取られ、棺を納めた石室内部の構造のよく判るものがある。土地の住民は、古墳のことを昔穴という。 高塚,黒石原両方の古墳を合して七ツ塚古墳群という。菰野町には古墳の分布は少なく、この七ツ塚のほかは、江平,奥郷,鵜川原に所 在するだけで、この七ツ塚古墳群の十定の地域に集中して16ケを数えるものは珍らしい。また三重県の古墳分布地帯からもこの七ツ塚古墳群は比較的標高の 高い所にあることからも貴重な遺跡といえる。この古墳は、古墳時代の終り6世紀以後につくられたものといわれ、石室の構造から死者一人に一つの円墳をつくって葬り、 封土はほかから運び盛りあげたようである。いずれも尾高高原一帯に勢力を有していた豪族一統を葬ったものであろう。
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- 大字杉谷 -
 釈迦岳直下の山麓、檜の古木が美しい林をっくっている静かな森の 奥に六角堂の尾根が見えている。尾高観音堂の本尊は御丈5尺8寸は ど等身大木彫の千手観音立像である。古くから伊勢観音三十三番の札所として庶民に親しまれてきた。この尾高観音は、旧引接寺といい二十五番の札所であり、杉谷の村中に ある慈眼寺は旧観音寺といい二十六番の札所であった。いずれも中世は天台宗、若しくは熊野信仰の混交で杉谷寺と総称されて大いに栄え たときがあった。近年発掘調査を行い、明らかになった「杉谷中世墓」の五輪塔と蔵骨器の出土品は、この時代の杉谷仏教文化の繁栄ぶりを証する遺跡である。
これらの中世の寺院は永称11年(1568)信長の伊勢進攻により滅亡した。江戸期杉谷村は桑名藩領下に組み入れられ、 この観音堂は引接寺と称し桑名藩主の菩提寺、浄土宗照源寺の末寺に置かれた。そのためか、本尊千手観音を安置する厨子は桑名城主の寄 進といわれる。明治5年になって住職無住、そして無檀下の寺院は廃寺の令が出て一時、本寺の照源寺預かりとなった。この廃寺の令を杉谷の村民は哀 しみ、一村共有の山林2町4反歩を寺地として寄進、また檀徒も新しく37名を募り再興の願いを県に上申した。明治20年になり手治山田岩 淵町の空寺、慈眼寺の株を本寺照源寺の斡旋により譲り受け、寺号を慈眼寺として再興が許された。その後は慈眼寺の奥の院としてこの観 音堂は守られてきた。現本堂は六角堂で、基壇は六角型に花崗岩の切石積みである。堂は文化12年(1815)杉谷の宮大工増田兵蔵が建立し、嘉永4年(1851) に修理を行い、更に昭和10年同57年に屋根の葺替を行っている。屋根の頂部に六角の露盤に請花付の宝珠をのせている。本堂前に天和2年(1682)建立の角石燈籠がある。
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- 大字田口 -
 福王山バス停から約500m、巡見街道のかたわらに西行庵跡の碑が ある。それより左へ150m登った、赤松林の丘の上に西行庵跡がある。 眼下に田口の新溜をへて東に伊勢平野が広がり見晴らしのよい地であ り、ここに平安末期、鎌倉初期の歌僧であった西行法師が庵を結び住 んで居られた跡であると言われている。西行法師は各地を行脚して歌を詠み漂泊の旅を生涯続けたが、晩年 は伊勢国を本居にしていたようである。伊勢市の神宮の近くにも西行谷とよぶ旧跡がある。ここ田口の西行庵跡では、次の歌を詠まれたと 伝わっている。山家集(佐々木信綱編)春の歌の部に伊勢国にしふく 山と申す所に待りけるに庵の梅の香はしく 匂ひけるを 〜
として柴の庵 よりより 梅の匂ひきて やさしき方もあるすまい哉 山家集のにしふく山は、今の福王山のことをいうのであろう。 のちに村人たちは西行法師の徳を慕い、このところに歌碑を建てた。 大正の始頃史跡の保存の記念碑を建て、この場所に6坪位の建物を設 け、句会歌会が催された。西行は俗名佐藤藤美清(又は憲清)俵藤太秀郷9代の嫡流で代々武勇の誉れある家に元永1年(1118)に生れた。鳥羽上皇の代に北面 の武士として仕え、左兵衛尉に任ぜられたが、23才のとき突然出家遁世した。その出家の動機は時代風潮の無常観の厭世によるか、時世に 対する憂慮か、また伝説の様に近親者の急逝によるためであるか、確かなことは判り難いが、出家して高野、吉野に隠くれ、また諸国を遍 歴した。西行は西は九州、中国、四国から北は奥州こ至るまで足跡がある。文治2年(1186)の秋、69才の西行は伊勢を発して、東海、奥羽 の大行脚に上った。これより先、治承4年平重衡をたずねた。晩年京都に帰り洛東双林寺のあたりに庵を結び、後に河内に移り建久1年(1190)に弘川寺で73才で世を去っている。
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- 大字田光 -
 田光城は田光集落の北西、鈴鹿山脈からのびた標高120mの丘陵上にあり、中世の砦跡である。南側を田光川が流れ、切り立った絶壁と なり、西側は空堀で支脈をたち切り、北側も急な斜面となっていて天然の要害の地である。東は多比鹿神社の神域と地続きになり、集落か らの木戸口となっている。
城の規模は、東西250m、南北80mの範囲にわたる。中心部に飲料 用の井戸があり、西よりに物見櫓の跡か方形の台地がある。頂上部は田光村の庄屋であった諸岡家の墓地となっている。田光は、巡見街道と八風街道の交叉する交通の要所であり、古くか ら峠を越えて、北伊勢と近江を結ぷ街道で伊勢湾の海産物、瀬戸、常滑の陶器をはじめ、生活物資の交流が盛んに行われた。特に近江の八 日市付近を根拠地とする近江商人は、伊勢の田光、梅戸、桑名、四日市に常駐して商いを行っていた。田光はこの様な経済、軍事上の重要 な地点にあった。田光城は、はじめ平安中期の頃田光隼則が築いたものと言う。後戦国時代になると、近江の豪族、佐々木高頼の四男高実が、伊勢へ勢力 をのばし、田光城を再興し、併せて梅戸城を築き、この地方を支配した。戦国動乱の世は、北勢の諸豪土と共に興亡をくり返し、遂に永禄 11年(1568)信長の北伊勢進攻に敗れ落城した。佐々木高実の墓は、梅戸城跡の光蓮寺に在る。
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- 大字田口 -
 国道306号線田口集落より西へ約2km、福王山の山麓、杉の巨木が亭々と空にそびえる森厳の中に神社はある。祭神は徳福の神毘沙門天 を祀っている。社伝によれば、敏達天皇6年百済より経文、僧、仏工を献上の折、来朝した仏師安阿弥が勅を受けて毘沙門天を刻んだとい う。後に聖徳太子の命により福王山にその毘沙門天を安置し、国の鎮護と伊勢神宮の守りとしたと伝える。毘沙門天は一名多聞天とも言う。インド古代神話中のクビラのことであるといわれ、護法神の一つで四 天王ないし十二天のうち、北方の守護神である。独立して福徳富貴の 神としても尊崇され、後世七福神の一ともなる。福王の毘沙門堂は元桑名京町の北側、職人町にあったものを慶長年間、
桑名が町割りのとき、ここへ移したものと云われている。福王山はまた、天狗信仰にまつわる伝説の多いところで、頂上はかなり広い平坦なところがあって、里人はそこを「天狗の踊り小場」と 呼んでいる。昔、堂付近を通ると天狗が危害を加えるといって恐れたため、桑名藩主松平定綱はこれを憂い、付近の木を多く伐りはらった ところ、何の障りもなく、その後は木こりも通れる様になったと言う。 この福王山は桑名藩のご用林となり、杉、もみを植林し、藩の山番小屋が設けられ、その跡が長助屋敷として名が残っている。現在は国有 林として営林署の所管になり杉の造林が盛んに行われ、美林となっている。桑名藩ご用林当時は保護されて杉、もみの巨木が福王山一帯にあっ たが度々の山火事によって焼失した。現在、境内に遣っているもので大子杉とよぶ巨杉があり、直径4m位ある。境内入口近くに天狗杉と 呼ぶ大木があったが、枯れて今はない。福王神社の玄関である田口のバス停前には、文政年間の建造の石造の燈籠と唐獅子、各々2基あり、 大正年間に建造の大鳥居は見事なものである。また参道の傍らにしる石の道標も和歌等が刻まれ、興味深い。
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- 大字千草 -
 江野遺跡は、菰野富士のすそ野、鳥井戸川と三i勧Ilにはさまれた扇状地にある。江野は昔、、菰野方面より湯の山への遊山道が通じ、春は つつじ、秋は荻の花、すすきの穂が一面になびき、絵の様な美しさで絵野とも呼ばれていた。古くは広い野原において、草競馬や太鼓踊り が催され、ここにまた古社、江田神社があった。戦前は旧陸軍演習場、戦後開拓地となり、昭和47年鈴鹿スカイラインが開通し、保養地とし て開発されている。この江野で昭和44年6月28日から7月3日にかけて、江野に住む2人の高校生によって、これまで日本全国で12個しかみつかっていない といわれる、縄文時代の早期の石器、矢柄研磨器が1釧司も発見された。
矢柄研磨器は長円形の石の表面に縦に一本ミゾを切り、この石を二つ重ねてにぎると、両方のミゾの部分が合わさって丸い穴となる。ここ へ矢の柄を入れてこすり、削ったり、みがいたりする道具である。この江野遺跡で発見された矢柄研磨器は、完全なものは長さ約10cm、 幅5cm、厚さ2.5cmの長円形の石英班岩、片方の面に幅1cm、深さ5mmのミゾがはいっている。また同時に発見された土器の破片は117個 あり、はかに石の刃物(スクレーバ)石オノなども含まれている。この高原一帯は平坦で日当りもよく、原始の狩猟採取時代の人間の 生活に必要な食物、飲料水も付近こおいて容易に得られる恰好の自然環境下に在り、重な生活圏であり住居地であったと考えられる。ここ で発見された矢柄研磨器は世界の各地、シベリヤ、蒙古、黒海沿岸、アメリカ、アラスカ等で断片的に発見されている。大陸から朝鮮半島 を経て日本に入ってきた原始時代の文化の流れを知る上において、尚、またわが国の縄文の早期の年代、草創期、早期、前期と各期の編年考証に重要な考古資料といえる。
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- 大字下村 -
 禅林寺は下村の桑名道添いにある。臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院で山門を入ると、左手に金比羅、地蔵、薬師の講堂が建ち正面に方 丈がある。この方丈は明治6年菰野城の廃城の際建物の一部を移築したもので、表玄関の唐破風造りの様式、方丈内部の欄間等に当時の藩 邸の規模がうかがえる。同寺の寺域は広大で昭和10年頃は古木が繁り深い森に仏法僧(三宝烏)がやどり霊鳥の鳴声を聞くことがあった。
寺の由緒によると、もとは大強原山、盧遮那寺という天台の古寺であった。中世、応仁の兵火にかかり衰微した。千種忠顕は家臣武田信 弥に命じて城を構え禅林寺城と称した。正平年間顕経の代に千種城を築いて移った。文亀3年(1503)11月治庸は普照大光禅師を招き開 基として寺を興した。治祖の忠顕の称号であった禅林寺宰相の名を取り禅林寺と称した。千種氏は寺地四町歩、寺領五十石を与え菩提寺と 定めた。天文24年(1555)住僧玄東は本尊大日如来像の修復を発願して仏師左京正の手により彩色修理を行なっている。その後は打つづ く北勢の戦乱により寺領を失い、再度衰微に向い、ついに永禄11年(1568)信長の兵火にも遇した。江戸前期慶安2年(1649)桑名長寿院の鉄叟和尚を招き中興し、 これより臨済宗妙心寺派となる。同寺には天文4年(1535)11月大工藤原国信作五代中興湛道常然の刻銘のある雲版が現存する。庫裡は嘉永3年(1850)に建立のもの。
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- 大字大強原 -
 飛塚古墳は、大字大強原字柳坪のミルクロードぎわにある。付近一帯は日研口41年は場整備事業によって耕地整哩が行なわれたがこの飛塚 古墳は現状のまま保存されている。古墳の規模は菰野町に現存する独立墳としては最大のもので、高さ3m、直径30mあり、もとは今より大きいものであったと思われるが、 長い年月に墳丘はくぼみ、上部は平坦になっている。この古墳は、柳ケ塚、首人塚ともよばれ、この地方に勢力のあった豪族の墓、また成務天皇時代の県主の墳墓であるともいわれている。 過去、明治の始め頃に鉄刀、管玉、勾玉が出土したと伝わっている。
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- 大字田光 -
 この石地蔵は九品寺の本堂の南側、壇の上に祀られている。花崗岩でつくられ、六角の面に仏像が刻まれている。石の表面は風化して尊 容もさだかでない。笠と台石に当る部分は後補のものである。形状は石燈籠の火袋に似ているが、石幢の部類に属するものである。
この種の石造六地蔵は三重県下、特に伊賀地方に多く遺されている。六地蔵 はもと田光城の上にあった清安寺に祀られていたが、信長の兵火に躍り寺が滅亡したので、里人によって多比鹿神社前の郷倉横に安置され ていたものを九品寺境内へ移されたものである。今も村人の篤い信仰を受け、田光区から毎年米2斗の寄進が続いている。 九品寺は浄土宗に属し、もとは集落の西はずれにあった密教系の寺であった。今その古跡に記念碑が建てられている。現在の所に移った のは室町末期頃と言われている。寺の由緒によると、日永六呂見の観音寺に浄土門の鎮西上人巡錫のとき、この寺の住僧がその門に入り、 念仏具通の浄土宗の教化を受け、その縁により山号も十念山と号し、九品寺を再興した。東海名所図会にこの寺のことが所載されている。
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【昭和51年3月31日指定】
- 大字千種 馬嶋すずゑ氏所有 -
 この寒椿は獅子頭という品種名で、幹の太さ1.31m(地際より30cm上計測)高さが5.5mあり、枝張りは7.5mあって花は八重、鮮紅色で秋11月中旬より咲きはじめ、順次3月頃まで花をつける。
椿は日本が原産地といわれ、野生のヤブ椿をはじめ園芸種として400種余り も栽培されている。その内でも獅子頭の分布が最も多く、園芸種としては王座をしめている。この奥郷の寒椿は、その体質に野生のヤブ椿 の血を多分に受け、野生から園芸種に分化する過程を知る上での重要な標本木として価値がある。この木のある馬嶋家は杉本寿仙を元祖と して代々尾張に住み、漢方医であった淳径の代に尾張国海東郡馬嶋村の眼科医馬嶋円禅の門下に入り、眼科医術を学び業を終えて師の馬嶋 性を名乗ることを許された。後、千草村奥郷に移り住み、忍藩領下の時、藩の御用医を勤めた。明治になり眼科医を廃業して小学校の教師 となった。屋敷内に古い薬師堂があり、天保7年(1836)の祈?札がある。また、本草学の大家小野蘭山の口述書「本草啓蒙」の写本24巻が所蔵されている。
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 東北山の谷間に、サクラの開花に先がけ、葉に先がけて細長い花び らが散開したようにわずかに紅色を帯びた白色の大きなモクレン様でほのかに香りのある花を咲かせるシデコブシの自生地があります。 シデコブシは愛知県、岐阜県の多治見・中津川地方、三重県の水沢以北の鈴鹿山麓などに約650万年前の地質時代に存在した東海湖とい う巨大な湖周辺の谷間で新生し、今もシラタマホシクサはじめ多くの仲間と共に生き続ける東海湖植物であり、その生育地は文化財として厚く保護されています。 東北山のシデコブシは近縁種が生えていず、また株元の木が取り木様にして繁殖しているためシデコブシ本来の純粋性を保ち、多くのシ デコブシがのびのびと本来の生長をつづけた木よりなり、今も増え続けるなど原種の性質を維持したシデコブシ精英樹の安定した貴重な自生地です。
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- 大字潤田 -
 大久保遺跡は、三滝川左岸で、同川の扇状地扇端近く、標高約76m にあり潤田集落の西方にある。この遺跡は、昔から地元の人々には知られていたが、
いわゆる周知の遺跡ではなく、昭和57年都市計画街路、菰野一潤田線(現在国道306)新設事業地内出土の土器の照会があり遺跡の存在が公に明らかとなった。 発掘調査は、昭和57年12月4日〜昭和58年3月末日まで実施された。調査区が道路予定地内巾12m、長さ約170mで帯状に調査したにすぎ ず、遺跡の全貌を解明するには至らなかった。調査の結果、堀立住建物7棟以上、竪穴伏建物が3棟、遺物として は、土師質の小皿、鍋、羽釜類、山茶碗、瀬戸、常滑製のカメ等、日用品と思われるものが数多く検出された。また、縄文時代の土器片も 何点か検出された。このことから、本遺跡は、縄文時代と鎌倉〜室町時代の複合遺跡と考えられ、特に後者は当時の農村の生活様式を知るうえで、貴重な資 料を提供したといえる。また、付近には近世地誌類に散見する「大久保城之介」に関係の墳墓が所在する。
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- 大字小島 -
 六谷遺跡は、朝明川の支流である田光川の左岸に形成された標高54m〜55m前後で小島集落の南に広がる河岸段丘上にある。
この遺跡は地元では、六谷山清月寺旧跡として知られ、「お鐘堤」「仏師谷」と いった地名が残っている。昭和58年度県営ほ場整備事業(八風地区)に伴う発掘調査で、遺跡は約3万uという広範囲であることが判明し た。この調査は、昭和58年10月19日〜昭和59年1月15日まで、約6,000uの範囲で実施された。この結果、縄文時代の遺拡、奈良時代初頭の規則性をもった大型掘 立住建物群、平安時代末〜鎌倉時代の四面廂付の大型建物を検出、また、これに伴って、土師器、須恵器、山茶碗類が多量に検出され、少量ではあるが石器、柱跡も検出された。 昭和58年度の調査では、遺跡の一部しか実施されなかったが、この遺跡が縄文時代後期(約3千年前)から鎌倉時代に至るまで、はば継続的に営まれた大複合遺跡(集落跡)と考えられ、北勢地方の歴史を知るうえで貴重な遺跡である。
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【平成元年4月1日指定】
- 大字菰野 -
形状縦2.8m、横1.72m 軸表装1幅 落款寛政七年歳在乙卯冬十二月弟子寂照月僊梵香祥写
 黄檗禅寺。和合山智福寺の創建は、菰野川原町の紺屋某が如来寺の開山祥蓮に帰依して出家、蓮西と号して、菰野城の西、門内の地に小堂を建立したのがはじまりという。この地は寺の古跡で十本の山桜の
老木が残り、その木の下に形ばかりの庵を編み観音像を祀っていたので桜堂ともよばれていた。享保4年(1719)黄檗宗の憎、賢州が近 江から山越えで当地へ来錫、和合山智福寺として禅宗寺院を興した。そのごは代々尼僧が住持して、第6世垈岳和尚のとき仏涅槃図の制作を企画、伊勢山田寂照寺の画伯月僊に依頼、寛政7年(1795)12月 完成した。この涅槃図の調製に際して当時の中菰野の住人清兵衛をはじめ70名の村人が寒念仏を行い、付近の村から浄財の喜捨を受け、その費用に充てている。 なお作者の画僧月僊は寛保元年(1741)名古屋の商家に生れ、7歳で仏門に入り江戸に出て桜井山興に画法を学び、のち京都知恩院の 住僧となった。京都において画技を更に円山応挙について修業34歳のとき伊勢山田の浄土宗寂照寺の住持となった。画は人物、花鳥、山水 を特意とし多くの作品を通した。画僧月僊は平素、粗衣、粗食で過し乞食月僊とよばれていた。収入の画筆料を蓄え寂照寺を復興し、山田 奉行所へ千五百両を寄託して貧困者の救済費、道路の改修費などに充て生涯公衆のために尽した篤行の僧であった。文化6年(1809)寂照寺で死没享年69歳であった。
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【平成4年9月17日指定】
- 大字菰野 正眼寺所蔵 -
 正眼寺の旧跡は三嶽寺の末寺として湯の山駅南東の寺坂にあって元亀、天正のころ織田信長の兵火にあい、滅亡したが本尊は被災を免れ た。明歴3年(1657)菰野藩主土方雄豊によって再興され、本尊として安置されている。 本尊は、中尊薬師如来坐像、脇侍、日光菩薩立像、月光菩薩立像からなる薬師三尊像で中尊は檜材の一木創りで、脇侍は檜材の寄木造り でともに漆箔で覆われていたと思われる。制作年代については平安時代後期の作と考えられ、定朝様の手慣れた作品で、中尊の頭部などに地方的な要素が看取され、菰野地域、あるいは北勢地方の仏像を考えるうえで重要である。
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【平成4年9月17日指定】
- 大字下村、禅林寺所蔵 -
 本像は、禅林寺本尊として本堂厨子内に安置されており、宝?を戴 き自毫相(水晶製・後補)を現し、智拳印を結んだ金剛界大日如来像 である。制作年代は体幹部の大部分は南北朝の作であり、膝前材は室町時代 の後補で造りは檜材の一木で当初は膝箔像であった。台座の裏には下記の修理墨書銘が記されている。

本尊大日如来中興彩色之
天文二四季乙卯自十月一日十二月十二日
開眼憤法同需 西堂
伊勢三重郡大強原瑞光山
禅林寺住持比丘旭 玄東
 大仏師左京正
 願人向陽軒元鎮
 同位田次郎衛門
天文二四年乙卯十二月十二日敬白
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- 大字下村 -
 玉葛水は玉かずら湯または道西坊ともよばれており、この「湯」とは池や井戸から湧き出る清水のことである。 この玉葛水には、日本武尊にまつわる伝説があって、命が東国の蝦夷を平定して帰る途中伊吹で賊を征伐した際に病気にかかり、伊勢国へ入られて病が重くなり、足が三重に曲り、御館の足洗石で御足をすすがれて更に道を西へのぼり、鵜川原のこの玉葛水で御目を洗われて、
さらに南の鈴鹿に至り、遂に力つき野褒野で亡くなった。この辺の村々は、応仁の乱によってすっかり荒廃した。その頃、千 種城主5代目の治庸は鵜川原にきて禅林寺を再興し、またこの村の由来と伝説を聞き、その荒廃を嘆き復興に努めたと伝えられている。 昔の人々は、命にあやかり、この玉葛水の清水で目を洗うと眼病が治るといわれ近隣の村々から井戸の水を汲みにくる人が絶えなかった と言うことである。また、この玉葛水は神水として三重神社(下村にあった神社)の神前に供えられていた。その後昭和10年に、下村の人たちの手によって、 井戸を美しい玉石で積み囲い、上には瓦葺の覆屋が建てられ、大切に聖地として守られてきた。ここには菅原、須賀、三重神社などかって 下村にあったお宮の碑石があり、文化元年(1804)と銘のある石灯寵も一基残されている。井戸の北側を通る道は、菰野から桑名への道筋であり、四日市から 千草への旧街道でもあった。井戸の内に安置する5体の青石板碑形の石地蔵は、この井戸の古い歴史を物語っているようでもある。
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- 大字田光 -
 春、桜の花の満開のころ、田光の旧八風神明社の大鳥居前で草競馬が催されることが恒例の行事になっている。昔は、ま直ぐな竪馬場でしたが近年この草競馬が人気を呼び、馬場も拡張されて円型馬場とな り、祭りの日は多くの観客を集め大賑わいとなる。この草競馬の起りは、昔、ここより山手の上の茶屋に村があり、その村長の中西家に祖先伝来の家宝の皿があった。その皿の守役は、お 菊といううら若い下女がつとめていた。その長者の家の下男に熊蔵という若者がいて、お菊に想いを寄せて言いよったが成就せず、そのことを熊蔵は恨みを持ち、密かに家宝の皿を隠し、お菊を罠にはめた。そのためお菊は責めを問われ、身の潔白を示すため峠の神明社に祈り身を池に投じた。
このとき一天俄にかき曇り雷鳴とどろき、大雨が降り大洪水となって村長の家も村も流されてしまった。このことのあっ た後、切畑、田光村の若者達は、薄幸のお菊を隣れみ峠の神明社に祀り、その霊を慰めるための神事として草競馬を行うようになったといわれている。また八風峠を陶器を持って通行すると、暴風雨になると信じられこ のため峠に番小屋を設けて通行する商人、旅人の荷改めを行っていた。草競馬の起源の年代は明らかではないが、昔は農家に農耕馬が飼育されていて、その馬を厩から引き出し、祭りの日に駆け競べをさせた。 競馬は馬の鍛練の場でもあり、また娯楽に乏しい農村のたのしみの一つでもあった。明治43年ごろ神社の合祀令により峠に祀る八風神明社が村の中の多比鹿神社に合祀され、宮守の制度も改めれると一時、草競馬も中断し たときがあった。その後、昭和天皇の即位を記念して復活したが、先の太平洋戦争中は農耕馬が軍馬こ徴発されて、また中断された。戦後、平和が甦り昭和45年頃に、八風青年会が復興を提唱して一時再開したが、現在は行われていない。
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- 大字田光 -
 多比鹿神社の大鳥居前の広場の西側に高札揚がある。屋根は瓦葺きで柱は桧を使い、まわりを頑丈な柵で囲い、基礎はていねいた切石で 亀甲積みにした立派なものである。それが、長い年月、風雨にさらされ、柱や柵は大分傷んでいる。ここは、南の亀山からきた巡見街道と桑名からのぼってきた八風街 道が交叉する重要な辻であった。昔は高札場のある前の辻を「札の辻」と呼んでいた。 高札揚は高札(制札)をたてた場所のことをいい、幕府は法令を木札に書いて街道の辻など人々の目につきやすいところに建て、法度の 周知徹底をはかった。普通、高札は横長の板の上部をゆるやかな三角にして裏に棧をつけたもので、
形は大小さまざまであった。高札揚の 規摸は、石を積み1段高くして、そこに桧の3寸角の柱を埋め、高さ6尺、幅5尺の大きさにして柱には横に貫を通して、上に雨おいの屋 根をつけ、まわりに柵を設けることに定められていた。村々の高札揚の管理は庄屋が当たり、その設置の費用は藩から出た。これを、故意 に傷つけたり、壊すと罰せられた。田光村が桑名領のとき、高札を新規に書き替えするために、村の大工に札を作らせ、それを桑名の代官 へ持参して祐筆に墨で書いてもらい、その高札を渋紙で包み、さらに菰に巻いて持ちかえり高札揚にかけている。幕府の嘉永4年(1851)に田光村が天領下に置かれていたころ近 江の信楽代官所へ願いでて建てた高札は八風大明神境内に汚穢不浄のしなものはもちろん陶器の類を埋め候もの見つけ次第留め置き訴え出でべきものなり と書いた札で、これは「お菊の伝説」にあるように、八風峠を陶器などを持って通行すると、必ず山が荒れ、大洪水になると信じられていたので、それを禁じた札であった。明治のご維新になって廃止となった。
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- 大字千草 -
 この大石燈籠は、旧千草街道と巡見街道の交わる千草の集落の中心部にあり、明治25年2月に建立された。この先、同22年に千草と音羽、潤田の3ヶ村が合併して新しく千種村が生まれた。その合併を祝い記 念して計画されたもので工事に3年を費やして完成された。この石燈籠は千草の石工内田友五郎が設計し、友五郎のほか10人の石工の手により刻まれた。原石は千草発電所より上の朝明谷で切り出され、
その石を牛車で運び出し、基礎の地固めなど多くの労力を費やし村総出の大事業であった。燈寵の規模は基壇が5.4bあってその上に5段積み重ね、上部の笠は屋形造り総高6.74bほどある神明型の常夜燈であ る。伊勢神宮の膝元である三重県内では、参宮街道、伊勢別街道沿いの村々に常夜燈が建立されている。その建立は江戸後期の文化、文政の頃に始まり、幕末から明治に盛んにつくられた。伊勢信仰の「おかげ 参り」が庶民の間で爆発的に高まり、われもかれも手を携えて共にお伊勢参りを行った。内宮、外宮両官への信仰の現れとして村単位で常夜燈の建立が進められた。常夜燈は木造もあるが、大半は永久的な石 造りのものが多い。常夜燈の明かりは、油火や?燭で灯され、村人が毎日、日供といい交代で日没から夜明けまで、その火の消えることのない様に奉仕した。この常夜燈は村の入口や中心に設けられ、村のシ ンボルであると共に、その下を通る人々の道しるべの役割を果たしている。千草の石燈籠の正面には「両官常夜燈」と刻まれている。
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  雲母山は昔から菰野三郷の萱山でした。毎年、秋が終わり12月3日 の山の神まつりがすぎると「萱山の口があいた」といい山へ入りました。この山の萱は、ススキのことをいうのであり、一部に笹萱も生えて いました。萱刈りのころは12月の初め、いちばん日の短いときで、朝早く暗いうちに家を出て萱山へ向かい萱床場で−ぷく、ここで鎌を研 ぎ、弁当包は床場の木にかけて置き、鎌とおいねに、竹の杖を持って瀬戸川に沿い萱場へのぼります。西菰野の刈場は水呑みの上の青木平で、山では1番に高いところです。
山は一面に萱ばかり生えており、自分の刈り小口を決めて下から上へと、だんだんに刈ってゆきます。 萱刈仕事は、半日で5束刈るのが一人前とされていました。昼前になると刈った萱を束に結い、3束でおいねをかけて、さらにその上に 2束をくくりつけて背負います。萱は穂が長く、束がかさばるので、背負った格好はまるで萱の山が歩くようです。谷から強い風が吹くと 背負った萱が凧のように風を受けて、吹き飛ばされることもありました。危ない山道を下り、途中で一服するときは、荷を体につけたまま、 頭の上に被さっている萱の束に手に持っている竹の杖をつきさして、これに重みをかけて肩を休ませたものでした。 下の萱床場では、それぞれ背負って来た萱で一杯で、村の連中と共に弁当を食べ、また昼からも山にのぼってもう一荷の萱を刈ります。 いくら気張っても1日に10束では、1棟の屋根を葺くには40日ぐらいの萱刈りの手間が必要でした。 天保のころ(1830)、この西菰里附も不作が続いて百姓が困り、お殿さんに撮んで年貢米の代わりに、萱1束で米五合の勘定で取っても らったことがあったそうです。それ以来、萱山はお殿さんの入用分だけ先に刈って出し、そのあと残った分を百姓の入用に応じて刈りました。
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7月20日。雨。湯の山へゆこうと思い、一人案内の者を連れて菰野を出発。2里の道のり、まず1里をすぎて1里四方の原(江野)に出 る。この原、秋になれば萩、桔梗、女郎花が花盛りとなる。山は土ばかりでなく石の砕けたるものも混ざり、色は赤く白い。それより谷川があって、川中に大石がいくつも転がる。水は石に触れて飛び流れる 恐ろしいところ。その石より向こうの石へ飛び越えることもあり、落ちれば深い。あたり皆山である。2、3丁行ってまた同じような谷川がある。3つほど川を渡ってほどなく湯治場に到着する。山あいに、10軒ばかりの旅館が建つ。 その中に湯屋がある。湯の湧くところは山の根にあって、湯は水のようで火で沸かす。入浴する客が多い。湯の山は近江の水口の奥、日野よりは山を越えてくるその道のり4里。その間、人家は無く渓流が3つあって狼や熊が住むという。すべてこの山中、家も少なく土もなく、石の砕けたるものにて野菜も作れ ず
五穀も実らない。宿は橘屋という家である。蒼滝を見物しようと衣を着た出家を案内人に、山の桟道を歩み行く。下は深い谷、一方は山。その道は山に添い、いく重にも曲がる。この とき向こうより熊が来た。熊のほうもこちらもー向に知らず、桟道の曲がり角で熊に出合う。先に立つ案内の出家肝をつぶして衣の両方の袖をひるがえせば、熊も驚いて両手をあげて立ちあがる勢いであおむ けに谷底へ落ちてゆく。怖さにその後も見ず逃げ帰る。 また江戸屋という旅人宿があり、その主人が菰野へ行った帰り道、酒をのみ彼の1里四方の原にさしかかったとき、狼3匹が出て飛びか かる。主人、酔うた勢いで手に持つ棒でなぐり狼をなぐり殺す。酒というものはすざましい勇気を振るうもとになると話す。この江戸屋の主人、話をつづけ「うちの男衆、山仕事に参り、帰りに薪を背負うて くる後より狼がついてきて、この男は石を投げつけつつ歩いて宿に帰る。それより急ぎの用事に日暮れて菰野へ出るに、先ほどの狼、谷川の石に待っており、菰野へ行かず帰る」と話す。狼はとにかく背を見 せ避けることを恥じるものという。○注 わが国で初めて洋画を描き地動説を唱えた有名な司馬江漢という画家が天明8年(1788)丁月16日から23日まで菰野を訪ね、湯の山に遊んでいます。その中の20日だけを紹介しました。
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  四郎右衛門老のお誘いに乗り、そのお供についてゆくことになった。 江野の野原を通りぬけ菰野富士の北側に出る。笹原をくぐり、鳥居道の谷の流れに沿い水落ち谷から左手に折れ、一の坂にたどりつく。 「さて、この鳥居道山のことじゃが、奥に嶽屋敷とよぶ寺跡がある。この奥に三嶽寺という古いお寺があって蔵王権現堂と不動堂があった。 菰野富士の北側に鳥居が立てられ、そこからが参道ときまっていた。鳥居道という名は、このためじゃ。参道の道しるべには丁仏があって、 その石仏を頼ってのぼれば山道も迷うこともなかったのじゃ。音羽村は、この三嶽寺の寺領で寺があった頃は、寺に納める年貢米 を牛の背中に乗せて鳥居口まで運んでくると、そこにさくらの大木があってその桜の下で寺の僧に渡したそうな。奥山で修行を積んだ僧は 力も強く、1俵の米を軽々とかつぎ、この山坂を嶽へのぽっていったそうじゃ。そして、嶽不動のことじゃが、国見岳の下の滝のそばの小さな堂に納まってござる、
昔から雨水を授けて下さるあらたかな尊い石不動として知られている。この石不動にこんな話がある。それは昔、ひでり が続いて田んぼにかける水が無なり困った年があった。千草の谷筋の村も同じように水不足で難儀をした。そのあげく雨乞いの霊験あらた かなこの石不動を鳥居道の谷から北の千草谷へひそかに移そうとする者たちがあった。その連中が石不動を荒縄でからげて人の背中に背負 い、谷を下り滑沢の岩場までさしかかったとき、一天にわかにかきくもり、稲妻とともに大雪が鳴りわたりえらいあらしとなった。石不動 を背負った者は驚いたひょうしに足がすべって岩の上に尻もちをついた。このとき石不動は肩から割れて2つになった。天罰テキメン恐れ をなして元の堂へお戻しした。割れた石不動をそのままにしておけんのでなんとかしてお直しせねばならん。仕方がないので鋳掛職人をた のみ割れ目をつないでもろうた。そしたらどうじゃ千草の村に不思議に火事が続いておきた。それに早鐘をあんまりたたいたので寺の鐘も 火の見の鐘も大きなヒビが入ったそうじゃ。お不動にこともあろうにフイゴと金火箸を使ったためじゃという。さぁ、これから−の坂をのぽり、 寺跡から嶽不動をまいり、滝の上からユルギ石の下に出て国見の頂上へあがり、伊勢谷の尾根をまわってシャクナゲ見物をしよう。」
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 小島の村は、家並が丘の上と下とにまたがってたち並んでいます。 丘の下を下のかいと、または元小島ともよび、上の高い所の方は、"空"とも新田かいとも、よんでいます。また丘の上の北の方、ひろびろと 開けた野の中に家が見えるのを沢かいと、言っています。ここに西沢、中沢、下沢、鶴沢と沢のつく地名が多いのも、そのあたりは、地下水 が湧き出してしけつきの所が多いからです。むかし小島が忍藩の領下であったとき、下の大矢知にその陣屋が置かれていました。毎年暮の12日に村から陣屋へ年貢米を納めるのに、 大川(朝明川)にそって下る谷筋の道と、もう一つの空の方、高い所から乗へ下る道と二通ありました。空の方は、丘の尾根づたいに下る道で、耳常神社の裏の野畑を東へ 保々の西村、市場、北小牧、北山、大鐘、平津、大矢知へと出ました。何時か、この道筋を改修する話が村で起り、下の元小島の衆は、大 川ぞいに下る案をとり、上の段の空の連中は、尾根づたいに下る方がよいとして、ゆずらず、空の上の高い所は宮も寺もあって羽振りがよ く、下の方の元小島の衆も「俺たちの方が村の草分けだ」と言い、負けてはおらず仲々論が多くて相談がまとまらなかったそうです。
話しは大分横道へそれましたがこの「十兵衛どんど」の話しは、こ の尾根づたいの道を下った小島の真のはずれに藤兵衛沢と言う字名があります。その沢(笹谷)に伝わる話は、「小島の耳常神社の森の北側の野畑 の真申を東へ下って行くと、小島の保々の西村との村境あたりに十兵衛どんどとよぶ、それは小さい滝があった。この滝の下の水は、どん な日照りが続いても枯れたことはなかったそうです水の落ちる下はあな強羅になっていて、この中に昔から横槌ほどの頭をした大なまずが一匹住みついているといわれていました。或るときこのなまずを取ろうとして善八と言う男が手桶で強羅の水 をかい取った。水がなくなると強羅の奥から、そろっと大なまずが顔を見せた、善八はこれを逃さぬよう、両手で抱くようにすくいあげ土 手の上でおどるなまずを結草でくくりつけた。しばった結草の先を両手でしっかり持って、なまずを肩にかついだ。 肩にかけたなまずのおんぽが地べたを引ずるほど大きかったそうだ。善八は家へ持ち帰って、馬の裾湯をする大盥の中に水を張ってなま ずを入れ蓋をして、その上におまけに重石をしておいた。善八はその頃少しの田んぼを作り、川魚の鯉や鮒、うなぎを漁して 生活の足しにしていた。その晩の夜中に人のよぶような声がするので、目があいた善八は、 声のする方を向くと、庭の隅の盥の中のなまずが"善八こい、笹谷いこう"と、はっきりよぼった。いかな魚取りの名人の善八もこれはてっきり十兵衛どんどの主に違 いないと思い、明るく朝夜の明けるが早いか、もとの笹谷の十兵衛どんどまで逃しに行ったと言うことです。
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  永井のおさつばあさんはよく仕事をする元気もので、池底から嫁い できていました。毎年、里の池底のお祭りには、よばれてゆきました。ある年の祭りのこと、この日は雨の降る心配のない祭り日和りでした。 親元の池底でゆっくりと腹いっぱいよばれてそのうえ、つもる話に花が咲き気がついたら日の入り間近でした。あわててご馳走になったお 礼をいい、帰りは重箱に、あげずし、まきずし、おしずしやのっぺいをいっぱいつめてもらいました。
風呂敷包みの重箱がおもいので、その結び目に手拭いをギュッとからげて肩にかけ永井への道をいそぎました。途中前野の松の木の下で一服して重箱をつつみなおしました。 昔の前野はおおかた松と雑木の林でした。この前野に古狐がすみ、ときおり人をだますということは、おさつばあさんもうすうす聞いて 知っていました。「ここで、ごてごてしていては狐めにしてやられる、いそがねば、いそがねば」とひとり言をいい小走りに道を急ぎました。 すると目の前に大川原があって水が流れていました。おさつばあさんは着物の裾をつまんで渡りました。やっと渡ったらこんどはすすきの 原、ゆけどもゆけども原っぱのつづきでした。一方、永井の家では、ばあさんの帰りが遅いので心配して、前野へ 迎えにやりました。前野の一軒家の孫兵衛の近辺で、大声をあげてよぼると、遠くの方でオーイオーイと返事の声が聞こえるので飛んでゆ くと、土取溜の西にばあさんがうずくまっていました。着物は破れてボロボロに、おまけに足はすり傷だらけのあわれな姿でした。持って いた重箱の中は砂だらけ、もらったご馳走は狐にぜんぶ食べられていました。そして、ばあさんの目に見えた大川原はなんとソバの花が、まっ白に咲く広いソバ畑でした。
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  むかしむかし、永井に佐右衛門という爺さんが井手のお宮の真のほうに小さな家を建てて、腰のまがった婆さんといっしょに住んでいま した。ある夏のこと、いく日もいく日も雨が降り続きました。ある晩、大雨の中、表の戸をどんどんたたいて「じい起きよばあ起きよ」と大声 で呼ぽるので驚いて表へ出てみると、暗いのでその者の姿や顔はよくわからない。「こっちこい、早くこい」と言うので仕方なく引っばら れるようにしてついて行った。
すると連れてこられたところはお宮の土地の一番高いところ、しかも杉の大木の下でした。雨は降るし暗いし、ふるえながら木の下にしゃがみこんでいました。 しばらくするとあたりの森で「コンコン、ワイワイ」とキツネの鳴き騒ぐ声が聞こえてきた。キツネが鳴くと「村さわぎ」といい、大変な ことが起きるといわれていたので案じていると、ピカッと稲光りがして大雪が鳴り、まもなく西の山あたりから大きな水音が聞こえてきま した。裏の朝明川の大堤がきれて、大水が滝のようになっておしよせてきたのでした。みるみるうちにお宮の周りも海のように泥水があふ れ、社の一部も流れてゆきました。恐ろしい一夜を木の下で明かした、じいとばあの2人は水の引くのを待って戻りました。見れば家はあと方もなく流れて一面川原になっ ていました。「ゆうべわしらを起こしてくれたのは宮に住むキツネが人に化けたに違いない」といい、さっそくお宮にお礼にゆきました。 2人は元の場所に小さな家を建てて住み、助けてくれたキツネの親子に好物の餌をやって仲よく暮らしました。永井の人々は佐右衛門夫婦の住んでいた所季その名をとって「佐右衛門島」と名づけました。
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  あやめ塚は、吉沢集落、源正寺の南、黒田みちの道路のすぐ北側に あります。塚のそばには小川が流れ、周りには四季色とりどりの草花が咲きますが、今は草もみじの中にひっそりと小さな碑が立ち、石には「あや め塚」と刻まれています。このあやめ塚については、吉沢集落に、次のような面白い伝説が語りつがれています。昔、吉沢あやめは、妻を吉沢において単身京へ役者の修業に出た。
あやめは、修業のかいがあって上方女形(おやま)、俳優の第一人者になることができた。ある時あやめは得意の妙齢の美しい女形の姿 に身をやつし、郷里の吉沢へ帰り、妻のもとへ日中にたずねた。ところが、妻は、夫のあやめの姿とはつゆ知らず、非常にしっとし て応待し、すげなくあしらったので、あやめは心の中でほほえみ、そしていったん別れをつげ、その日の夕方、真のあやめの姿でふたたび 妻のところへ帰った。すると、昼間尋ねて来た女の人のことで夫婦ゲンカとなった」。 あやめは、白昼自分の妻でさえ真の夫と見分けのつかない程、女形名人であったと伝えられています。以上が吉沢集落に昔から伝わる話ですが、この話について、吉沢集 落の旧家、野呂雄三氏の家に残されている古文書には、およそ次のようにしるされています。 「本村の中心より己(南々東)の方向に当る所に、広さ一坪の一基の石碑が建っている。これは本村の久保幸助という者が建てたものこれ は昔、あやめと名のる歌舞伎俳優の塚なり。本村で死亡し、ここにほおむる。この話は、古老の言い伝えによるものなり」とあり、碑を建 てたという吉沢の久保幸助は吉沢の村役人もつとめたことがあり、当時、寺小屋を開き書も上手な人でした。
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 大強原の嘉十郎は腕ききの堂宮大工として、近在に名の知られてい た棟梁でした。名人ということで、その門下には建築技術の奥義を会得するために若者が多くついていました。 親方の嘉十郎は、自分の弟子たちへ常に口癖に「ひとよひとよと、ひとむつまじく」と呪文を唱えるように言いきかせていました。 大工が家を建てる場合にサシガネを使って寸法を図りますが、この言葉はそのいちばん大事な基本をたとえていったものです。大エの使うサシガネは、L字型の直角定規と物指しを合わせたようなもので、表と裏に目盛りが刻まれています。裏の目盛りは角日と丸目があって、角目は正三
角形の定理による表目のルート2倍になっており、丸目は円周率3.14159倍の目盛りがついています。日本のサシガネは使い方一つで、乗除・開平、開立や比例配分の計算まででき、大工はこの表目と裏目をたくみに使いわけて勾配などの難しい計算を します。だれが発明したものかまったく不思議な計算器であるわけです。 さて、先の嘉十郎が唱えた「ひとよひとよ」は、いいかえればルート2倍の比1.414のことで、親方はピタゴラスの定理を弟子にやさし く、わかりやすくいいきかせたものです。ためしにB4の半紙大を計測するとタテとヨコの比がぴったりであり、新聞紙も週刊紙も、この 相似形が生かされています。そして次に「ひとむつまじく」は、これもタテ、ヨコの比が1対1.618のことをいい、昔の農家は梁行3間半(6.3b)桁行5間半(9.9b) が普通とされ妻(タテ)に対してこう前(ヨコ)が1.618倍の比になり、この型の家が安定して姿も美しく、その上住みよいといわれていました。 この比は正倉院御物の色麻紙にも見られ、遠く古代から日本人の生活の中から生れたもので、この率を黄金率というのだそうです。いま自分の 使っている机の寸法を計って見たらやはりこれも嘉十郎大工の言う「ひとむ」の率になっていました。
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